ガラクタ経済に思う
先日朝日新聞“私の視点―変われるか日本人”で政治学者ダグラススミス氏の「ガラクタ経済からの脱却を」と題するコラムが掲載されました。
心に深く残りましたので、そのあらましと感想を記しました。
ダグラス氏は不況が深刻になる中で、人々がものを買わなくなったことが問題になっている。現在、ほとんどの日本人は、本当の意味での必要品は手に入れているのに、もっと買わなければ不景気は直らないと、経済学者や政治家は言う。その結果経済制度を救うため必要でないガラクタを買わねばならない。
このガラクタを生産するのに多くの資源を必要以上に消費し、環境をますます悪化させている。本来経済が発展すると豊かになるはずだが、労働時間は一向に減らず、長時間労働が過労死や、家庭生活、市民社会、そして文化そのものに破壊的な影響を与えていることは明白だ。
問題の本質はより質素な消費文化になっても崩れない経済制度に変えることが可能かということである。消費は今後減るに決まっている。それが「質素」になるか「貧乏」になるかということだ。
今日本経済はマイナス成長になっている。マイナス成長を「行きたいところに行けない」ではなく「別のもっと良いところに行く」というふうに考えられないものだろうか。
「消費をせよ」といくらいわれても、私たちはもうおいそれとは踊れないのである。
これがダグラス氏のコラムのあらましです。
まさしく自分の生き方をもう一度見直してみる必要があると感じました。
経済がマイナスということは自分たちの生活をその分(少なくとも物理的には心の問題は別として)小さくすることと同じであります。来年度の成長率のマイナスは避けえないでしょうが、数%程度の生活の切り詰めは、現在の日本人の生活レベルからみてそんなに難しいものとも思えない。小泉さんも痛みを伴う改革!といっている。
しかし問題はこの数%が国民に等しく及ぶのではなく、往々にして偏って押し寄せることが耐えられない事態を起こしてしまう。リストラや倒産で失業し一家の生活が破綻する。この痛みは耐えることが出来ない。
小泉さんの痛みとやらの具体的中身、それを耐えた後の明確な国家像、人間としての最低限の文化的生活を守るセーフティネットの明示が無いと、痛みは耐えられない。
「質素」にはなれるが「破綻」には耐えられない。
何とかいい解決策は無いものか。ガラクタ経済がいつまでも続かないのは明らかだから。